夢と私

夢について考えるとき、私はSMAPの「夏日憂歌」の歌詞がうかぶ。かの有名な「オレンジ」を作詞作曲した人と同じ人。

 

 過ぎ去りしdays 駆け抜けたways 憧れ泣いたあの夢は誰が手に入れたのだろう

 

サッカー選手になりたい、とか、宇宙にいきたい、とか夢はいろいろある。でもきっと、同じ夢を誰かも持ってる。63億種類、将来について思い描くもの・職業があるとは思えない。だいたいが、世界観や語彙力が限られた子供のころから持ち続けているから、なおさら。そしたら、私と誰かの夢の違いは何だろう?

 

私が持ってるか、あの子が持ってるか。それだけの違いしかないと思う。「〇〇という夢」を「私が」もっているから、私の夢だ。「私が」手に入れるから、私の夢だ。だから、私が手に入れないと、あの歌詞のように「あの夢は誰が手に入れたのだろう」てなるんだろう。

でも逆に、私が手に入れられなくても、同じ夢を持ってる誰かが、手に入れてくれるかもしれない。私も、誰かの夢を手に入れられるかもしれない。嫌な意味でなく。それもなんかいいよね。やりたいこと叶えたいことが多いと、自分だけでなくて、誰かに託すってのもあり。

 

だから、私じゃなきゃだめなもの、誰かに託せないものは逃せないよね。例えば、「美味しいトマトをつくりたい」夢の場合、私でなくてもできそう。世の中、おいしいトマトは何種類かある。でも「この目で宇宙をみたい」とか、「パリコレに出たい」とか「自分の曲で感動させたい」とか。うまく言えないけど、主語が自分でなければ意味がないものってのは絶対ある。それを、逃さないように、見失わないようにしたい。